NHK-hi特集。戦争の記憶
70年前の戦争について、いま語るというのを未来のためにアーカイブしても、戦後の戦時政府叩きによってバイアスがかけられた当時を生きた人に聞いても、なんだかなーな証言になりはしないかという疑問。
お国のために死ねますか。は、保守、右翼といったレッテル張りのように思われるが、実はなにを答えても保守になってしまうというわな。そもそも家族のためとかいうのもバリバリの保守なのだ。正しく左派的な答えとは「国家とは何か?」なのであろう。
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人は何かの所為にしなければ、次に対処できない、次回もあるのではないかと不安になるものという風にされています。実際、科学的な方法論が主流となった近代以降では特にそうでしょう。科学がなくても人はこうした不安には常に何かしらの対処をしてきたように思います。(御札やら、魔女狩りやら、信心やら)
でね、何かの所為にしようとするとどうしても無理やり感が出てしまうのだと思うのですね。でも、それは、人の性(サガ)を認めないということになってしまうのかもしれない。
もう既に大昔のネタにループしてしまうかもしれませんが、他人を人として認識できないくらいに肥大化した社会(人間関係)では、自分の個人的な想いだけで何でも出来てしまう。と思うんです。
満員電車で毎日大勢の他人と通勤通学する。店員というシンボルで形式化・自動化されたマクドナルドやセブンイレブンで朝食をすませる。仕事は嫌になれば転職サイトで好きな職場に移ることが出来る。受け入れるほうもフロムAに求人すれば交代が利くし。人生のあらゆる場面でシステム内で自動的に事が進む。一緒に社会を構成している人達を自分の友達・仲間として考えなくても済む。*1
人間も商品や情報と同じようにマスで扱える。
そういうことなんじゃないかなぁ。1960年代からの不安がそのまま残っているんじゃないかなぁ。
リースマンがこうした社会を指摘したのは1950年。アメリカでの似たような事例はすでに、3,40年前に起こっていただろう。(調べてないけど。そういやフォーリングダウンって映画があったね。)
2008年4月9日の視点・論点をコピっておいた。
*1:知らない人になら平気で暴力・暴言をふるえるけど、知人には何もできないんじゃなかろうか。
カーボンオフセット
google:カーボンオフセットってどこが取り仕切っているのですか?怪しすぎて怖いんだけど。
二十世紀と私 デイヴィット・リースマン
- 作者: D.リースマン,永井陽之助
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1982/11
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付箋でメモした分
http://todo.oboetel.com/でメモした分
- 解説
- 序
- ソ連旅行
- 大不況とある個人的体験
- 戦後の核兵器
- jfk
- イケイケの好戦的志向は、国・人民を強くする。
- jfkは彼自信が伝説的だったのではなく、彼の好戦的態度によって鼓舞された強い米国人が伝説的なのだな。
- 民主主義って恐いね!
- 核兵器と原子力
- スリーマイル島事故はケネディ時代?
- 核兵器拡大路線の縮小を余儀なくされた。
- しかし、対抗策の如く浮上した核シェルターブームはそれが逆に核兵器容認への布石となっていた。モスクワの地下鉄を核シェルターであると宣伝したり。
- スリーマイル島の事故は、核兵器に対する恐怖を呼び起こしたが、同時に原子力発電に対する嫌悪も喚起してしまった。
- ノー・ニュークスとステッカーを貼った乗用車を見る度に皮肉に感じるらしい。(かなり先進的な人だったんだなリースマン)
- 現在へ続く核問題の矛盾は、イケイケのケネディ時代に原発事故が起きたことに端を発しているのかもしれない。
- 世界・地球・人類の存続を求める時、核兵器は脅威である。しかし、同時に有限資源の石油の節約に貢献する原発も嫌悪の対象にしてしまった。
- 学者が持論を実証するために政治活動をするか、自分の政治思想の論拠を得るために学者をしているのかは、区別がつかないなぁ。社会学の怪しさの原因はそこにあるのかもしれないね。
- レーガン登場の予言
食糧問題と移民問題と労働力の確保と...。
この話を読んで、4月17日の視点・論点とリンクしました。まだNHKのブログでは更新されていませんが、食料自給率の問題は経済的な問題だけではなく、国家がどうあるべきかという戦略にもとずくべき問題だと、出演していた鈴木宣弘氏は言っていました。
米国の基礎自給食料といわれる酪農製品は、米国の保護政策のもとで輸出産品になっている。
保護政策のおかげで、国内販売価格が高価維持されており、そこで生じた国内益を輸出ダンピングへと転嫁することで、酪農製品の輸出国になっている。
という主旨のことを言っていた。
視点・論点のページが更新されたら、もう一度、読み直してみよう。
クォータリー[あっと]3号
- 作者: オルター・トレード・ジャパン編集室パラグラフ
- 出版社/メーカー: 太田出版
- 発売日: 2006/03
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フェアトレードについてこれまでの認識
以前、フェアトレードについての考えてことがあった。
この時のこのように解釈していた。
- コーヒーの生産国での出荷価格と消費者が購入する価格には大きなひらきがある。
- 消費者が製品の対価として支払ったお金の大半が中間業者の手に渡っており、生産者はごくわずかのお金しか手にしていない。
- 生産者へもっと正当な対価を分配できないだろうか。
- だったら中間業者をとっぱらって生産者から直接買付けよう。そうすれば消費者が支払う金額をそのまま生産者に渡すことができるね。
- でも、そう簡単にブローカーを取っ払うことはできないよ。
- じゃぁ、消費者への販売価格に生産者への寄付金みたいなものを上乗せしようぜ。
- 「一生懸命、働いてもわずかな対価しか得られない生産者に愛の手を!」マークをつけて売る。
- 「あらまぁ可哀想!」と思った消費者がまんまと買うよ。
したがってこのような感想をもったのだ。
まだまだ不見識であるがやっぱりフェアトレードってのは、格差を解消するための消費運動ではなく、「格差に対する罪悪感を解消するための感情的消費行動」なのではないかという素朴な直感が正しいという気がする。
そしてこれを読んでみた。
コーヒーがフェアトレード製品とて取り上げられるには理由がある。コーヒーは赤道付近の地域でしか生産できない。赤道地域は貧しい国(というかかつての植民地)が多くそれらの国々で生産されている。そしてコーヒーの消費国はヨーロッパ・北米地域の先進国である。
こうした状況を見れば、植民地の安い労働力で生産したコーヒー豆を、かつての領主国が買いあげてコーヒーを飲むという文化的行為を楽しんでいる、という風に見えてしまう。さらに不運なことにコーヒーを飲むという行為は人間にとっての栄養摂取とはならない嗜好的行為であることも贅沢感があるのだろう。
こうしてコーヒーはやり玉に挙がってしまったのだろう*1
コーヒー生産国(生豆ベース)
順位 国名 数量(t) 1 ブラジル 246万 2 ベトナム 83万 3 インドネシア 70万 4 コロンビア 68万 5 メキシコ 31万 6 インド 27万 7 エチオピア 26万 8 グアテマラ 22万 9 ウガンダ 18万 10 ホンジュラス 18万 - 全生産量 778万 コーヒー輸入国(生豆ベース)
順位 国名 数量(t) 1 アメリカ合衆国 124万 2 ドイツ 96万 3 日本 40万 4 イタリア 39万 5 フランス 24万 6 スペイン 22万 7 ベルギー 19万 8 オランダ 14万 9 カナダ 13万 10 アルジェリア 13万 - 全輸入量 546万
クォータリー あっと 3号 p.33
で、こうしたことはこれまででも(なんとなくだが)把握していて、本当に知りたいところというのは、フェアトレードなんて言っている奴らが本当にしたいことは何なのか?ってところなんだ。
多分、どちらかなんだろうなと思っていたわけだ。現状では「愛の手を」系の募金活動とまるっきり変わらない状況になっていて、コーヒー生産者の生活が向上するとは到底考えられないような気がしていた。
あぁぁ。まとまんないや。あとでまとめる。こっからはメモ
「岐路に立つフェアトレードの現状と課題」堀田正彦*2氏のコラムが興味深かった。
- フェアトレードマークという製品規格を作ってしまったことの後悔。
- フェアトレードとは、自由貿易に対するカウンターであり、対症的対抗手段なのである。
- 自分達の本来の活動の目的は真に平等を求めることである。国を越えて国境を越えて生産者と消費者は、同じ労働者として連帯すべき関係なのだ*3
- フェアトレードを仕掛ける側でも、大きく二つに分裂している。
よりコアな活動家にとってもフェアトレードと言うのは「なんだかなぁ」な存在であるらしい。
結局のところ、フェアトレードと言うのは、先進国に住む消費者が気持ち良くなるための広告的活動なのかもしれない。ここからさらに踏み込んで左翼的な思想に持ち込もうとするのは難しいかもしれない。なんたってフェアトレードで気持ち良くなっているのは、広告に釣られやすいヴァリヴァリの消費者なんだから。
その辺はフェアトレードという甘美なキャッチコピーを作った自分たちが一番良く分かっていることだろう。