人は何かの所為にしなければ、次に対処できない、次回もあるのではないかと不安になるものという風にされています。実際、科学的な方法論が主流となった近代以降では特にそうでしょう。科学がなくても人はこうした不安には常に何かしらの対処をしてきたように思います。(御札やら、魔女狩りやら、信心やら)

でね、何かの所為にしようとするとどうしても無理やり感が出てしまうのだと思うのですね。でも、それは、人の性(サガ)を認めないということになってしまうのかもしれない。

もう既に大昔のネタにループしてしまうかもしれませんが、他人を人として認識できないくらいに肥大化した社会(人間関係)では、自分の個人的な想いだけで何でも出来てしまう。と思うんです。

満員電車で毎日大勢の他人と通勤通学する。店員というシンボルで形式化・自動化されたマクドナルドやセブンイレブンで朝食をすませる。仕事は嫌になれば転職サイトで好きな職場に移ることが出来る。受け入れるほうもフロムAに求人すれば交代が利くし。人生のあらゆる場面でシステム内で自動的に事が進む。一緒に社会を構成している人達を自分の友達・仲間として考えなくても済む。*1

人間も商品や情報と同じようにマスで扱える。
そういうことなんじゃないかなぁ。1960年代からの不安がそのまま残っているんじゃないかなぁ。
リースマンがこうした社会を指摘したのは1950年。アメリカでの似たような事例はすでに、3,40年前に起こっていただろう。(調べてないけど。そういやフォーリングダウンって映画があったね。)

2008年4月9日の視点・論点をコピっておいた。

2008年04月09日(水)
視点・論点 「誰でもよかった」 精神科医 斉藤環
 このところ、無差別に人を殺す通り魔的な殺人事件が続発し、世間を騒がせています。
 3月23日には茨城県土浦市荒川沖駅で、24歳の男性が包丁で一人を殺害し、七人を負傷させるという事件がありました。続く25日の深夜には、JR岡山駅ホームで、大阪から家出してきた18歳の少年が、県職員の男性を線路に突き落とし、死亡させる事件が起きています。
 土浦の通り魔殺人の容疑者は、高校を卒業後、コンビニ店員などのアルバイトを転々としていましたが、アルバイトをやめてからはひきこもりがちな生活を送っていました。自宅ではゲームに熱中し、家族ともほとんど会話せず、家庭内でも孤立していたようです。
 岡山で男性をホームから突き落とした少年は、阪神大震災で被災して大阪に転居したものの、新しい環境になじめず、小中学校ではいじめを受けていました。高校時代はまじめな努力家でしたが、卒業後も家庭の事情で、進学も就職も決まっていませんでした。
 二つの事件の容疑者に第一に共通するのは、逮捕後に「殺すのは誰でもよかった」という意味の供述をしている点です。
 このように、若者による動機のわからない犯罪が起こると、メディアは過敏に反応しがちです。とりわけ背景に個人的事情がみて取れない場合、その犯罪はしばしば、社会状況を映し出す鏡としてあつかわれます。それゆえ、今回続発した犯罪についても、さまざまな解釈がなされました。
 土浦の事件の直後には、ゲームが槍玉に上げられました。ゲームをやりすぎると、仮想と現実の区別がつかなくなる、というおなじみの論理です。
 ちなみに岡山の事件の容疑者はまじめな勉強家でしたが、勉強のしすぎの問題についてふれた人はいませんでした。このほか、若者を絶望させる競争社会や格差社会が悪い、という説もありました。
 それらの解釈が正しいものかどうかについては、私はあまり関心がありません。殺人という、めったにない出来事が成立してしまう背景には、必ず複合的な要因が絡んでくるはずで、単一の原因だけで語り尽くせるとは考えられないからです。
 それぞれの事件の容疑者は、たしかに不安定で明るい展望が持てない生活を送っていたようですが、これを絶望的なものとみるかどうかは賛否があるでしょう。もちろん、いかなる事情があろうとも殺人は許されることではありません。メディアの勝手な解釈とは別に、精神鑑定なども含めて、事実関係がきちんと解明されることを希望します。
 ただし、このような犯罪には、それに対するメディアの反応も含めて、さまざまに象徴的な意味を読み取ることはできると思います。私がこれから述べるのは、個別の事件についてというよりも、事件の持つ象徴的な意味についての解釈です。この点をまずご了承下さい。
 さて、二人の容疑者に共通することは、一種の自暴自棄です。彼らはあきらかに、逮捕されることを想定した上で犯行に走っています。その意味で、彼らにとっては、他殺と自殺の距離は限りなく小さいとも言えます。
 もちろん彼らの置かれている状況が、通常の意味では絶望的にはみえません。しかし、それは一面的な見方です。生活を続けていくことの可能性という点から言えば、彼らはまだ、必ずしも「生存の不安」にはさらされていません。しかし、彼らは別の意味で危機的状況にあったとも言えます。それは「実存の不安」というものです。
 自分がなにものか。自分が生きていくことに意味があるのか。そうしたことにまつわる「実存の不安」は、戦後の若者がいだく不安の中心を占めています。
 いまや「生存の不安」はリアルなものではなくなり、「実存の不安」が圧倒的になりつつあります。それゆえかつての若者は、行動によって自分が何ものかであることを証そうと必死であがきました。その少し後には「自分探し」が流行しました。どこかにあるはずの本当の自分をさがして、若者は心理学や宗教にすがろうとしました。しかしいまや、若者は自分探しすら断念しつつあるようにみえます。どういうことでしょうか。
 社会のインフラがネットワーク化、システム化されると、社会全体の匿名化が進みます。個人の意志や動機が直接に社会を動かすのではなく、間にさまざまなシステムが介在するため、物事の因果関係がきわめて複雑になります。その結果、システムの中枢を司る一部の人々を除いては、自分がおかれている状況がきわめてわかりにくいものになりがちです。この傾向は今後ますます加速されるでしょう。
 「格差社会」という言葉の問題は、それが誰のせいでもなく、システムの作動それ自体が、自動的に格差を押しひろげていくのだ、というイメージを固定してしまったことでしょう。このイメージはきわめてリアルで曖昧なものなので、検証できないまま流布していく性質を持っています。その結果、経済格差や人間関係の格差、希望の格差あど、あらゆる点において格差の存在が予測されがちです。
 そこで予測されるものの一つに「名前の格差」というものがあるように思います。
 名前の格差とは、あくまでも比喩的な表現です。システムの中で、自分だけの固有の名前を持つことができる人と、匿名のまま名前を持つことができない人の格差です。目的として扱われる人と、手段としてしか扱われない人の格差、とも言いかえられます。目的としての名前を持つということは、変化と成長の可能性に開かれていることを意味します。しかし匿名の手段でしかないことは、そうした変化の可能性に希望を持つことができないことを意味します。
 こうした匿名性という視点からみるとき、「誰でもよかった」という言葉は特別の意味を持つように思います。もちろんそれは、「殺す相手は誰でも良かった」という意味だったでしょう。しかし、本当にそれだけでしょうか。二人の容疑者が偶然にせよ同じ言葉を口にした事実は、この言葉を象徴的なものに変えます。
 私には、この言葉が彼らが自分自身に向けた言葉のようにも聞こえるのです。匿名性の中に埋没しつつあった若者が、「これをするのは自分ではない誰でも良かった」と呟いているように聞こえるのです。
 かつて、若者による動機の不可解な犯罪の多くは、犯罪行為による自分自身の存在証明のように見えました。自分自身の神を作り出したり、犯行声明文を出したりという形で、それは表現されました。
 しかし、今回の二つの犯罪には、もはや殺人によって何ものかであろうとする欲望の気配も感じられません。自分自身の行為すらも、半ばは匿名の社会システムに強いられたものであり、たとえ犯罪を犯しても自分の匿名性は変わらない。そのようなあきらめすら感じられるのです。
 果たして彼らを、匿名性から救い出す手段はあるのでしょうか。それはまだ、わかりませんが、ここでヒントとなりうるのは、哲学者カントによる「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」いう言葉です。いかにしてこの定言命令を、社会システムの倫理に変換しうるかが、これから問われることになるでしょう。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/8078.html

*1:知らない人になら平気で暴力・暴言をふるえるけど、知人には何もできないんじゃなかろうか。