おもろいので全文引用。

2007年10月08日 (月)視点・論点 「超振り付け学の現在」

コンドルズ主宰 近藤良平

今日は超振り付け学の現在と題して振り付けにまつわる世界を話したいと思います。
まず「振り付け」といっても一般的には、さほどなじみのない言葉だと思います。
通常の定義では、「ある瞬間の体のポーズを構成したり、それらがつながる一連の動きを構成すること」などを指します。
しかしそれを形として理解することは、非常に難しいことに思えてしまいます。

ひとつ簡単な例をあげましょう。
「音楽」は音という聴覚を利用した分野です。
紙面上に表す方法として「楽譜」があります。しかし舞踊、ダンスとなると音楽でいう楽譜のようなものを作成することは非常に難しいことです。
20世紀にはラバノーテーションなど「振り付け」を楽譜化することの研究がなされました。
しかし現実には「動きの連なり」を細かく紙面化することは出来ません。
そのため人から人へと伝えられ、伝承音楽のように「振り付け」なるものが残されています。

現在ある「学ぶ」という言葉は元来「まねる」から変化していったと言われています。
とくに日本舞踊でいう「所作事」などは師匠の動きをとにかく「まねる」ことから始まります。
「人の動き」を真似しながら、その動きの流れを習得していきます。

さて、このように舞踊でいう「振り付け」は一般的には、あまりなじみがなく形として捉え辛い要素でもあります。
他の学科に比べても遠巻きにされる分野でもあります。

私は実は大学では教育学部を専攻しておりました。
「一般舞踊」という授業があり、その授業を通して「動き」「舞踊」「表現」「からだの気づき」などを学ぶ機会を得ました。
通常では、実技を通して舞踊に接しております。
学校教育の中では「音楽」「美術」「体育」その体育の中の一つの項目としてダンスが位置づけされています。
「表現運動」などと呼ばれる分野です。
これは美術や音楽と同様、体育の中のダンスは、非常に評価し辛いものであります。
ましてや教えづらいものでもあります。

しかし少し角度を変えて考えてみて下さい。
先日保育園で運動会に参加しましたが、その運動会で様様な形式の「遊戯」を見ました。
来年は北京オリンピックですが、そこでは必ず盛大な開会式が行われ何千人の人々の舞いがみられます。
もっと原始社会を想像すると「文字」という表現手段を獲得する前はやはり、手ぶり、身振りを用いて人から人へ「気持ち」「事柄」を伝え、あるいは「喜び」を表現していたはずです。

例えば「豊作の喜び」を例にとると一人の喜びの表現がそれを見たものにその気持ちが伝えられ2人、3人、複数の人々へその喜びが伝えられ、表現されています。
その時その体は「豊作の舞い」と呼んでも良いかもしれません。
私たちが地域の盆踊り大会に参加する時、もとをただせば、その人たちの生活の営みの延長線上に、それは「舞踊」として表れていきます。

さて「振り付け」という定義にもどりますが今述べた「人と人のつながりから産まれた必然」であると私は思います。
そして面白いことにその「振り付け」は人対人で行われます。
リンゴや机など物体に対しては「振り付け」はしません。
ですから、振り付けは人と人を繋ぐ非常に日常的な、そして普遍的な行為と言えます。

私たちは水を出したい時、じゃぐちをひねりますが、この、蛇口をひねるという動きは、親から学ぶか、真似することで、その動きを獲得します。
今度は、それを逆に蛇口そのものがそこになくてもその動きをすればそれを見るものにとっては、「それは蛇口をひねっているポーズあるいは動き」である事が分かります。
もし右にひねっていれば「閉める」左にひねっていれば「開く」ことまでもわかります。

このように目的のある、あるいは目的に繋がる動きの意味は理解します。
しかし動きのなかには一見「目的を持たない」性質のものもあります。
その場合、その動きの意味を完全に理解することは不可能ですが、しかしそれは存在します。
これは美術でいう「美しい絵」、書道でいう「美しい字」などと同じで「美しい動き」に昇華されたりもします。

「あーあの人のダンスは力強いねえ」」と述べた時、まさしくその人の動きは「力強い」はずです。
スポーツでいうサッカーでは「ボールをゴールに蹴り入れる」という使命のような目的ある動きをします。
エレベーターで8階に行くためには人間の生活は殆ど目的の中で動きます。

しかし盆踊り、群舞ではその動きは直接目的を必要としません。
そしてこの感覚は日常世界を離れ非日常的な空間を創出していきます。
これが「舞のある空間」です。
それは目的のある動きではなく「表現を含んだ動き」となっていきます。
これを客観的に形づけていく事、同じ動きを何度も再現化するために行う行為が「振り付け」という作業になります。一見難しそうですねえ。

一つ例を上げましょう。
ラジオ体操という「振り付け」があります。
それは「健康になる」や「朝、目覚める」などをひとつの目的とした、動きの研究を模索した結果に出きあがった「振り付け」の一つです。
この場合一般的には「体操」といいます。老若男女。
健康のため、シェイプアップの為の「体操」「動き」は案外と率先して行われます。

しかし「舞踊」「ダンス」と名付けられた場合一般的には敬遠されます。
それは一見、目的が不明瞭だからです。
人は目的が理解しがたい動きには、入りこみづらいものです。
ましてや「振り付ける」となるとさらに遠い世界に思えてしまうのです。

私はNHK総合の「サラリーマンネオ」という番組の中で「サラリーマン体操」というものを創作していますが、これは「体操」と「舞踊」のもつ要素を利用して作っています。
例えば「出張に役立つ体操」とタイトルを付けた場合、その為に振り付けられる動きはすべて「出張に役立つための動き」に思えて来ます。
日常ではあり得そうもない「動き」がその出張に役立つ体操の中で表現されるとそれは一般尺度の「ずれ」において、滑稽な動き、愉快な動きに見えたりします。
「そんなこと無理だよ、ありえない!」と視覚的に思った時には、それは振り付けが人に伝わった瞬間です。
サラリーマン体操は振り付けの伴うダンス作品のひとつとも言えます。
余談ですがあの体操は、健康には役立ちませんのでくれぐれも鵜呑みして真似しないように。

この様に「振り付け」のともなう動きは日常生活ではたくさん出現します。
漫才師が行う形式的な動きは「振り付け」です。動きが決定している演説は「振り付け」があります。
子ども同士がする変身の儀式なども振り付けと言えます。
すべての人が振り付け師になる必要はありませんが生活の中で「振り付け」という要素は必ずあります。
それは、先ほど述べたように一見目的が希薄で場合によっては理解しがたい、とっつきづらいと思われがちですが現代社会においてはとても日常的なことと考えられるでしょう。
そしてそれは文化的活動と呼ばれるある種の芸術として受け入れられることもあります。

「日常的な動き」から「非日常な動き」が生まれ、強度を増すとそれが再び、日常的な世界に帰っていきます。そんな「振り付け」をともなう世界のなかで笑ったり感動したりすることは事実です。
生活の中のゆとりの部分、豊な生活の中に「振り付けのある世界」を味わう心を持っていただければ幸いです。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/4964.html