学校というゆがんだ群れ社会
これまでのいじめ議論を訂正し、実効力のある対処法を示した内容だと思う。
- 作者: 森口朗
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2007/06/01
- メディア: 新書
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スクールカーストという言葉を導入し、いじめの実態をきれいに説明するところが最大のポイントだろう。 2007-07-30 - A Goofball
本を読まなくても大体のことが分かるスバラスィまとめ。*1
でも気になった感想が、「コミュニケーション能力ってなんでそんなに重要なの?」ってとこ。*2
ところで私は、スクールカーストについて、コミュニケーション能力が大事なのは分かったが、なぜコミュニケーション能力が高いのが良いこととされているのか、次元をひとつ繰り上げて考えてみた。
というのも、コミュニケーション能力が少ない人でも、優れた人はいるだろうと思うからだ。つまり、集団の中で言葉による意思疎通が重視されているが、それ以外のもの、たとえば絵や音楽や文章で表現することに優れた人だっているんじゃないの、と。
2007-07-30 - A Goofball
コミュニケーションってのは、なんなの?ってことを考えれば分かると思う。
表現したり自己主張することがコミュニケーションではない。双方向に通じていて初めてコミュニケーションって呼ぶわけだし。
僕が好きな考え方を使うと、
人間は社会を形成する事で生き残った生物だ。イヌもイルカもサルも群れをつくって生きている。その群れの中でより高度に関係性をつくっていくことで生物界において生き残りを図った生き物なのだ。その流れで考えれば、当然、群れてこそ人間なのだ。群れをつくるってーのは、コミュニケーション能力がないと群れをつくれないんだよ。当たり前だけど。
というかんじで自明になってしまう。ま、自明というよりは公理だ。公理を証明するのは、ものすごく難しい。
コミュニケーション以外の能力が高くてもそれを評価できないと何の意味も無い。「オレってスゴイんだゼ!」って言えない奴はどんなにスゴくてもダメ。さらに、コミュニケーション能力ってのは思いやりでもない。*3
過酷な世の中だよね。ってか世の中ってのは過酷だよね。
それよりも、「スクールカースト」という言葉を知って大変ためになりました。はてなキーワードの説明によると、要するにモテるかモテないかによって階層が出来上がりますよということらしい*4。ナンツーか非常に動物的だ。わかりやすいくらいに動物的だ。
本来、人間はとても複雑な社会をつくっていて、モテるモテないなんて単純な話で済まないはずなのだ。
ホントの問題とは、こうした短絡な関係性しかつくり出せなくなってしまったのはナゼかという点にある。
実は、それについては既にmixiで書いてしまった。以下mixi日記の今回の主旨に即した要約
近代国家に必須となる国民全体の高い教養。それをを効率よく国民に行き渡らせるための近代的教育システム。しかし、そのシステムが人間関係の「モテ・非モテ」化という弊害を生んだ。
近代的教育システムとは、同世代の人間を一つの場所に集めることで、成熟度に合わせて効率よく一括して教育をおこなうという「学校」というシステムをさす。
しかし、この学校システムは、社会における縦の人間関係を分断してしまった。縦の社会を切り刻んだこのシステムは、人間関係の円滑化能力に著しく偏向を生じてさせたのだった。
以下mixi:ネットヒッキーは大変なものを盗まれていたようです。
「耳をすませば」は見たことがある。「時をかける少女」は見たことがない。っても原田知世じゃなくって、最近のアニメのほう。
- 2007-07-24 - ARTIFACT@ハテナ系
- 耳をすませばに対する秀逸な反応が元となっているために、どこまでが正直な反応なのか分からないけれど、つらそうなひとが沢山いるようで気の毒になってきた。
- 青春ものを見ると死ぬはずだった人間が何故「時をかける少女」を思い切り楽しめたのかを自己分析してみる / ついでに脱線 - 放課後は 第二螺旋階段で
- この自己分析を読むと、ギャルゲー世代が面白がって作品の演出を評論しているに過ぎないのだなと分かって、ちょっと安心したりもする。
でも、仮に他人の楽しそうな青春をみて鬱になるのだとしたら、コンプレックス以外の何があるのだろうかと考えた。
当人の才能や意志のいかんにかかわらず、教育の場に引きずり出される少年・少女時代とは過酷なものだ。
同世代の人間を、学校という近代的フィールドに押し込めてしまうという時点で、ある種の人間にとっては致命的な状況におかれてしまうのだろう。
しかも妙な平等思想のせいで、お勉強の場であるにもかかわらず、お勉強の優劣での序列を(表向き)禁じられている。そのため、人間関係の構築にわかり易いヒエラルキーが存在せず、人間関係は人間関係によってのみ成立つという非常に不安定なものになってしまう。
(人間関係が人間関係によってのみ成り立つってのは、意味不明な表現ですね。でも、事実、そういう意味不明な関係によってしかその関係性を表明することが出来ないのです。)
でま、分けわかんないことを言おうとしていますが、結局のところは、ひきこもりの人たちは、自分の適正に合った少年時代を奪われてしまった人達・勝手な少年時代を押し付けられた人達なのではないかと思ったしだいなんです。
*1:新書は内容が薄いので、タイトルに釣られて買うと、値段の割りに合わないということになってしまう。
*2:個人的な主張ですが、コミュニケーション能力はとっても重要です。学校とかいうおかしな環境では偏ったコミュニケーション能力しか身につきまへん。爺さん婆さん・貴人賎人・悪人善人、etc.いろんな人間がごっちゃごちゃな、いわゆる世の中に暮らすことでようやく身につくものだと考えています。というか、そういう社会で生きていかなきゃいけないからコミュニケーション能力が大切なんだと思う。
*3:思いやりってのは「思いやりがあると、結果として得するよ」って話なのであって、必ずしもコミュニケーションにおいて必須の項目ではない。
*4:学校に存在する実際の人間関係には「モテ・非モテ」なんて関係がない。というよりも人間関係の不安定さによって「モテ・非モテ」が生じるのだ。要するにモテるかモテないかによって階層が出来上がるのではない。人間関係の関係性によって結果的にヒエラルキーが生じ、その「なんとなく」という理不尽さによって結果として「モテ・非モテ」が出来上がるのだ。