ベルばらに古典の恐怖を感じた

プロフェッショナル 仕事の流儀 ぺンチャー気業経営者・南バ智子の回を観ていて

  • コンぴニの店長
  • 忙しくするのが仕事というような兵隊はトップではない、本当のトップは(非独立系?)ぺンチャーに投資するやつらだ。兵隊の親分に使われている取巻き連中は気の毒だな

などと無責任に言ってみたが、かく言う自分はなんなのかと考えてみた。

  • どんなことをしたいのか
  • どんなひとになりたいのか

というのは全然違うことを表しているのだが、ときどき順番を間違えてしまうことがある。やりたいことを重視する人、こんなふうになりたいを重視する人、とそれぞれあるだろう。
自分は、理想とする人物像があってそこからブレないように、やりたいことをやれればいいかなと考えているようだ。やっていることは同じだとしても、その根底にセコイ精神があれば、その人を軽蔑してしまう。結果なにもなせなかったとしても、その誇りや強い精神力を尊敬してしまう。

他人からは、独善的にみえてしまうかもしれない。それでもいいと思っている。けれども、ここに一定の客観性や正当性を満たすには、いったい何が必要になるのだろうか。

ところが、ベルサイユのばらのオープニングの詩を聞いて、とうの昔にとっくに完結しているのだなと悟った。
今(現代)でこそ、いろいろと社会的立場が複雑化してしまった。けれども、実は今も昔も変化はない。虫が卵から幼虫になり成虫となって飛び回る、その飛び回る理由は交尾して卵を生産するための行動でしかない。それと同じことずぅぅーーーっと、延々と繰り返しているのだ。
その中で、自分がどんな役回りを演じるかというそれだけなのだ。なんて思ったら、「なんだ、もう解決済みじゃねぇーか、いまさら蒸し返してなにやってんだ?ヒマなんだな( ´△`)アァ-。」って一気にいろんなものが解決してしまった。

ホント、おじさんうざいなぁー。邪魔だなぁー。早く終わりにしよぉー。がんばんなきゃナ。