傷つけたくない症候群の鬱陶しい空気感

「ミーちゃんが。さっき、ワタシの、靴を。...」
幼児語であるところの、これが世代や性別を突き抜けて、学校に通い始めてからもずーっと使い続けて、中学校・高校とそのまま放っておいた結果が、いちいち他人に確認しないといけない感性が普通になってしまっている。
で、全員がこれをやりだした結果が、嫌われたくない症候群なのである。と勝手に思っていたのだが、この私見は正しかったのかと思わせる日記を見つけた。

もしこれが本当だとしたらミクシィのような馴れ合いが本気で現実だと思っているのだろうか?ミクシィの馴れ合いも、2chの罵倒合戦もネタだと思っているほうが異常なのだろうか。(実は最近、増田で怒られました。ネタで言ってんのかと思ったけど、吟味してみるとどうも本気らしい。)

”絡みのないマイミクは自動削除して欲しい”とか”マイミク以外は自分のページを踏めないようにして欲しい”、しまいに”GPSでどこにいるか表示できるようにして欲しい”ってアナタ、どこまで追いかけてくるつもりですか><

日本語の無駄な「?」表現 ex.みたいな?、わたしって○○なヒトじゃない?
に代表されるように、新しい世代の方達は自分に自信がないのか、他人を傷つけることに不安を感じているのかウザイ表現がはびこっております。
その延長上になんでもルール化、明文化してもらうことで、巧妙に責任を他人に負わせている。のではないかと疑ってしまう。
世渡り戦術として、責任を他人に押し付けるというのはそれはそれで有りだと思う、でも無意識にそれをやってしまうのは恐ろしいことだ。

他人を傷つけることに不安を感じるウザイ表現というのは、人格の未成熟や、それゆえの心理不安を現しているのだろうな。
このサイト面白そうだ。http://www17.plala.or.jp/subculing/

高校に勤める友人たちが、この数年の間に何度も言うこと
「今の生徒たちは、人に嫌われないためだけに生きているように見える」「これまで『強いられる』という経験をしていない」「誰とも本気で付き合っていないように見える」「両親も学校も恐くない、ただ友だちとの関係性だけに怯えている」「いじめの当事者がコロコロかわる」「携帯メールであっさり関係性の力関係が変わっているらしい」「いじめの悩みで欠席していることを友人の誰にも説明していない」「集めたノート(プリント)を配らせると、クラスメイトの名前を知らないから配れないと言う」等々

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昨今の子どもたちの間では、消費文化以外の若者文化が極度に貧困化した結果、彼らの人間関係から緩衝帯が消えてしまい、関係それ自体が赤裸々になってきています。お互いの関係を維持するために頼るべきものが、関係それ自体にしかありえなくなり、安定した距離感が失われてきています。今日のいじめ行為は、このような事態が進行するなかで、いわば人間関係の重さに風穴を開けるためのテクニックの一つとなっています。その意味において、往年の若者文化と機能的に等価なものとなってしまっているのです。

本当に、関係がそれのみで存在していると認識しているなら恐ろしいことだ。いくらでもコントロールする(アジる)ことが出来てしまうじゃないか。どういうメカニズムで生じたのか、興味深い。親の子に対する過干渉・無関心と言うと細木和子っぽくてつまらないしなー。
きっと面白い構造が見つかるに違いない。

気になったコメント

# 2007年01月27日 id:aozora21 個人, Ⅲ教育, Ⅵ書評, Ⅹ社会, いじめ 桐谷修二を演じていた亀梨和也も、現代高校生のキャラそのものだなあ、と感じときに痛々しかった。【参考】「博報堂生活総研のコラムポスト「ポスト団塊ジュニア」の生態学

コメントの返事が長くなって、折角なので本文に載せる

かえるさん>
まささんは、まさしくかえるさんのおっしゃるように、知り合いに対してそういう気遣いをしているのですよ。(たぶん、「そうだね、じゃぁなんか食うか?」的なやり取りをつくろっている。)
で、気を使っている自分がいるということに気付いてしまって、なんでアタシが「おなかへってなぁい?」なんて(半強制ともいえる)同意を押し付けられなければならないのだろうか、と疑問を呈しているのです。

けれども、疑問形の形をもった勧誘表現というは、英語でも現れる形なので文法的にも普遍性がある形なのかもしれません。だとすれば、「おなかへってなぁい?」はまったく他意のない素直な表現で、疑う側に問題があるというのも素直に受け止めるべきかもしれません。

しかしそうはいっても、(うまく表現できないので具体例で言うと、)真夏の室内でエアコンが効きすぎているときに私が少し寒いなと感じたとします。そのときエアコンを切りたいと思っても、一方、自分とは感度が異なっていそうな人(ある程度の関係性上の距離のある人)がいる。その際に、私に同意してくれるならエアコンを切ろうと思ったら、無理に同意を促さない&自分の意向は極力フラットに相手に尋ねる方法を模索します。すると安直なセリフが「さむくなぁい?」になってしまうのです。
で、他方でそんなグルグル思考をウザイと思う自分もいて、「エアコン切っていいですか?(大前春子風)」と言ったほうが気楽じゃないかと思ったり思わなかったり。でもその相手に押し付ける感も嫌な空気をつくってしまうなぁと思ったり思わなかったり。

そういうグルグル思考の末に、「なんだかなぁ」という感情が湧き出ているのでしょう。

こうしたグルグル思考を停止する方法のひとつが「開き直り」なのだと思います。
開き直りの一方がサバサバスパッと(大前春子)系であり、もう一方が押し付け気遣い(巻き髪ハケン)系なんじゃないかと。さらにどういうスタンスをとるか迷っている(要するに)「開き直れない未達観な人(森美雪)」が、まささんであり私なのだろうな。

とはいえ、本来の興味の対象は、私はどの立場に属しているかではなくて、嫌われたくない症候群という風通しの悪さの原因はなんなのか?それは言葉という表象的な部分に原因があるのか、それとも(核家族化等々の)現代の社会構造に原因があるのかを知りたくなったのです。
確かに、「若者言葉」を俯瞰すると、相手との距離感を常に意識して作られていると思えるものばかりです(例えば、コンビニ敬語と呼ばれるもの)。同時に、年の離れた人に対してもタメ口をきいてしまうフレンドリーさも持ち合わせている。さらにトモダチがたくさんいる(本義的な友達なのか、それとも知り合いなのか知らず)と主張する。
これらを合わせて「いじめの対象がコロコロかわる」を反芻すると、関係性が「疎」と「密」という二つのポジションしか存在しない社会適応不全があるのではなかろうかという疑問が湧いてくるのです。
社会適応不全ならば、社会をどうとらえるかを学ぶ機会の時点に問題があるのではないか?という類推も出来るのではないかなぁ。*1

*1:すなわち問題は家庭ってこと?、友達みたいな親子関係に問題があるわけ?、みたいなね。